トルネードといったらカンザスである。昔、カンザス州の農夫が巨大竜巻に飲み込まれ生還した話がある。畑で仕事をしていた農夫は竜巻がやってきたので逃げようとした途端、横の地面が剥ぎ取られ家が巻き上げられていった。かろうじて地下室への穴に逃げ込み上空を見上げると、黒い竜巻の管の内側が見えた。そこでは稲妻がしきりに跳ね回り、小さな竜巻が何度も生まれては、その淵に消えていっていたという。この話は何度聞いてもいい話だ。漏斗状になった竜巻の管の内部を見る農夫の視線には、時空の境に立ち会ってしまった静寂がある。これは芸術とそれを鑑賞する観客との関係に似ている。「小さな竜巻が生まれては消えていく」とは一体なんだ。科学的分析を問うているわけではない。それは到達した場所であり、しかし戻ることの困難な、それまでの全ての記憶を消失するほどの強烈な歓喜が一斉に毛穴から吹きだす、そんな謎の場だ。私にとって例えばあなたは何になりたいかと聞かれたら、そのような謎が現実に混在する場に、自ら足を踏み入れるストームチェイサーと今は答えたいかな。とにかく、そんな場所へ自分が訪れることになろうとは。
カンザス州のローレンスという小さな学園都市にやってきた。ここで私は州立大学が持つ美術館の大掛かりなリニュアルオープンに向けて作品を依頼され制作をしている。作品の一つは、アメリカ牛3頭分の皮を使いバッファローの顔の形に縫合し、そこにカンザスの神話地図を描いたものだ。他のアメリカの美術館と同様にここの美術館や大学の歴史は同時に街の歴史にもつながり、世界の近代史はアメリカの建国の歴史と重なる。言うまでもないがアメリカの歴史の短さこそが欧州にはない若々しい行動力を生みだす所以だろう。センチメンタルはあっても侘しさがない。家の隅っこまでペンキのブラシが入り、影色が明るい。困っていると手を差し伸べられ、なんだったらショベルカーがやってきて新しいものに差し替えてくれるような大らかな父権的頼もしさがある。美術館で仕事をしていると、嫌が応にもそういうフロンティア精神というか、互いに違う国から来た者同士がまとまって一つのアメリカ国民となるためにあみだしたルールの中に放り込まれる。客員教授扱いの私に、大学はとても友好的で何の不自由もないのだけれども、何だか柔らかい軍隊の中にいるような心地だった。
美術館の向かいにある古く小さな自然史博物館にも作品展示が可能になった。ちなみにここは全米トップ5に選ばれるほどの自然史博物館で、視察の際にその素晴らしさに強く興味を惹かれた場所である。展示場所にお願いしたのは、120年前に作られたカンザスの自然を模したメインパノラマの中。そこは岩山に数々の動物の剥製が立ち、背後にはグレートプレーンズ、天井には草原の鳥メドウラークが描かれる大ジオラマだ。ヘラジカ、ビッグホーン、プレリードックなどが中央にある泉に水を飲みに集まってきている。そこに腰に狼の毛皮を巻いた人間の子どものリアルな脚の造形物を鎮座させた。つま先が水面に触れそうに、ちょこんと泉の縁に子どもの下半身が腰掛けているのだ。この展示は美術館と博物館双方が画期的だと喜んでくれ話題となった。ところが、私は設置した途端になぜか嫌な気分に取り憑かれた。古い昆虫採集箱に誰かが悪戯したように、遊びが博物学的分類を無効にしてしまって、動物は中に綿が詰まっただけの表面的なものに見えてきた。多くの人が大切に守ってきたものを侵犯した非常にすまない気持ち。自分で遊びを仕掛けておきながら、こういうことが私にはよくあって、その後尾をひく。
大統領選も終わり、開館式で「どうぶつのことば」という短いスピーチをし、翌日ドライブ旅行にでた。「移動」することで自己をつくり変容していくことがアメリカだ。この街を一歩でれば、そこには地平線まで凡庸として続く耕作地とトールグラスが生い茂る大平原が現れる。その地形を背後に持ち生きる人々の感覚は、山を背後に持つそれとは全く違うだろう。居心地良い安全な街を15分も走れば、人家はまばらになり現れてくる生の地球と空。小さな町に着いて給油し、付随するバーで食事をしては立ち上がり「地平線の向こうにはもっと素敵な街がありそう」とドロシーはまた移動を始める。アンティークモールやハードウエアショップを巡り、フリーメイソンの寂れたロッジを見つけ、木造の橋を渡り、ステーキチェーンで肉を食べ、汽車と遭遇しては車両の数を数え、狩猟のための巨大ショッピングモールで多くのハンティングされた剥製や銃や狩猟道具に酔い、人間のつくってきた物を見た。私にとっては美術館の中も外も地続きで、同様の眼差しで眺めていた。この人間のつくってきたものは、どこから美術館という家の中へ入り、どこから軒先に置かれて雨晒しとなり錆びていくのか分類できない。しかし分類できないことを無理やり分類していくことは言語の性なのかもしれない。一つの国になるために?
何かをやるときには確信した手が先に動く。その一瞬は言葉も道徳も法も介入しない領域だ。けれども、それでも人間社会のことなのでよくよく考える。考えるとは言語の行為である。よくよく考えて、それでも訳が分からない時、実行する。
鴻池朋子
2016年文藝春秋『文學界』エセー