あすもおそらく、まだ犬だろう

Tomorrow I'll probably still be a dog.

老犬と小学生の私

犬を飼っている子どもは少なくないだろうし、犬が大好きな子どもも多いだろう。1969年アポロ11号が月面着陸を果たした頃に私は小学生で、外にはまだ野良犬も多くて、いつも家に餌を食べにやってくるノラという老犬がいた。遊び疲れて外から帰ると玄関脇にノラがいた。
 ノラは静かに寄ってきて私の顔を舐める。舐められることはとても奇妙な感じで、何か大切な儀式だった。抱きよせるとノラの毛はチクチクして土埃と草の混じった匂いがし、体温が少し熱くて気持ちよかった。この時私とノラとの境界は溶解し、犬と連続している歓喜を覚えた。
 犬と子どもはその存在位置がよく似ている。どちらも人間社会の周縁にいて、野生にも文化にも属さず、しかも大人という人間でもない生きもの同士だった。ノラはその頃の私と背の高さも近くとても親密で、人間と動物の互いの領域を侵犯合うような関係がいつも内奥で起こっていたように思う。そんな頃に『ピーナッツ』と出会った。

真似のできない線

私は小さい頃より文字を読むことが苦手で、小学生になり一人で本屋に出入りできるようになっても装丁や口絵や挿絵ばかりを見て本を選んでいた。スチールワイヤーの回転ラックに並んだツル・コミック社の小さな「ピーナツ・ブックス」はカラフルですぐに目に止まった。コンパクトな少し縦長のペーパーバックサイズも、その藁半紙のような茶色がかった紙に印刷されている姿も好みだった。(同じ頃トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の冬』とも出会っている)。小学校はサンタクロースの不在や、日々新たな人間社会のルールが押し寄せてきて、成長などとは到底言えない不安定な心身の成長を体験して“何も信じられない年頃”になる。『ピーナッツ』はそんな瞬間の子どもたちの変容が描かれているように思う。
 しかし、何よりも私の心を奪ったものは、シュルツさんの描くその“線”だった。軽やかで生き生きとしていて、洗練されていながら鉛筆書きのようなノイズがある。しかも自分たちと何だか似ているような身体感覚を覚え、犬のような太陽の匂いや安心感がそこにあった。誰でも描けるような絵に見えるので、同じようにスヌーピーを描こうとするのだが、さっと手慣れた丸っこい勢いのある線は決して真似ができなかった。何でこんなに単純な線が自分には描けないのだろう。だがそれこそが、毎日描き続けてきたシュルツさんの絵の真骨頂だったのである。
 日本のマンガともまるで違い、『ピーナッツ』コミックはどこをどう切り取っても成立する、1コマだけで十分見せられるグラフィックとしての構成力と合理性には驚異的なデザインの強さも感じた。その有機的な線の中にこそ、後に生まれる爆発的なファンシーや雑貨の到来を予兆させる力が潜んでいた。たった1コマで豊かに日常のささいな脅威を物語る美しくユーモアのある画は、あっという間に様々なメディアに飛び火してグッズとなり、これでもかというほど限りなく大量生産されていく。そんな過酷な消費世界の中でも決して廃れなかったというのは驚くべきことで、これはプロモーション戦略などと言うよりは、何よりもその絵、形態に宿る力があったからだろうと思う。この人々の霊感を震わす線はどこからくるのだろう。

線に潜む多くのもの

文字を読まず絵ばかりを見ていた私にとっては、ライナスが天才的に難しいことをウイットに富んで話しても、スヌーピーが憧れのヒーローに影響され哲学的な皮肉を言おうとも、ルーシーがウーマンリブの代表のように現実を切ることなどはそんなに重要ではなかった。只々『ピーナッツ』の絵が、その線がとにかく好きだったのである。
 ウッドストックの点々文字で語る鳥語の話を聞くスヌーピーの犬たる形、大脳がまだ柔らかいポワポワのライナスの頭の形、ハゲっぽいチャーリー・ブラウンの丸い石頭のカーブ、しんしんと雪に埋まる犬小屋、横向きで原っぱを歩き続けるルーシーのサドルシューズ、その足元にある芝や彼方の地平線、土砂降りの縦線で真っ黒くかき消されていくライナス、パタパタと舞うピッグペンの砂埃の形、子ども軍隊のようなキャンプでの焼きマシュマロの形、スヌーピーの犬小屋に泊まってペパーミント パティが感じる土の匂い、風に飛ばされまくるウッドストックの存在の軽さ。
 マンガでも絵画でも書でも何でも、絵というものが面白いのは、作者も気付かないうちにそこ(画面)にさらけ出てしまう、ということが唐突に起きるからなのである。描かれようとする線の勢いの中には、これから生きのびようとする暴力にも似た生命のかいがあって、文字を絵のように眺め、無防備だった私は、ただそういう得体の知れないものを丸ごと飲み込んでいたのだ。線はキャラクターたちの言語以上に、あらゆる感触や音や匂いといった生々しいものを投げかけてくれていたのである。それが美しいとか言葉になるのはずっとずっと後なのだが。そしてたまには、仕事が終わったら犬に舐められに行かねばならないと、あらためて思うのである。

美術手帖 2016年11月号 増刊 特集『スヌーピー』