見る人よ何を見ている

そこで作品を見ている人よ、何を見ている?
目の前に見えているものがあるからといって、それが「見る」ではない。それはただ目に映る反映にすぎない。「見る」とは外界との交渉であり、対象に参入し霊的な交通をする手立てである。私たちは目をつぶっても、視覚という感覚器官がなくても見ている。眠っていても夢という画像を見る。手探りで見る。
「見る」ことによって初めて対象は発見され、混沌としていた自然は形を持ってざわめきたつ。私は長い間潜んでいたものと出会い、ああそこにいたのかとまじまじと見る。そして「見る」ことができてようやく、人は「つくる」ことを始めた。「見る」とは自然に参入することであり、「つくる」とは手を加え、自然に背くことだ。

作品をつくる人を「作家」という。作家には「自己表現」という役目が与えられた。けれどもそれらの言葉は、あてがわれた漢字の見た目の記号作用も伴って、なんとなく勝手に人々の思考の森で跋扈する。それゆえ作家がつくるものは全て自己表現となり、つくり手側の一方通行の私小説的モノローグであっても、ま、表現ってそんなものか、と捉えられるようになった。しかし本来「表に現れる」とは、外に晒され、風に打たれるようなダイアログではなかったのか。

ある日、そこに一人の観客がやってきた。その人は作品を見て「よくわかんない」とつぶやいた。いつでも見る人は、誰の許可も必要としない自由な草原に立っている。文字なんか読めないから、作家の説得はもとより、タイトルや解説にうっとりなんかしない。ばったり作品と出会い、ただ見て、暴力的に侵犯してゆく。どんなに拙くとも知識がなくとも、作家の卑怯を見つけだし、あっけらかんと指摘できるのは、つくる人ではなく見る人なのである。つくり手の意図など軽々と超え、出会うべきものと出会い、見る人は、作家さえも気づかなかった水脈を探りあてる。
絵を描くことや、新しいものを書くことみが創造ではない。「見る」とは発見することであり「つくる」ことだ。見る人は恐ろしい力を、その人という自然の中に原始的に備えているのだ。

2017年4月~2018年3月 共同通信社連載『かかとに棲む狼』より