かつて「チビ」という名が反転してビーチとなり、最後はビーちゃんと呼んでいた野良猫が棲みついていた。ビーちゃんは私の家の物置で「奥さん」と呼ばれる多産の親猫から生まれた最後の1匹だった。私はそんなビーちゃんを別名で「1といっぱい」と呼んでいた。それにはこんな経緯がある。
ある日道端でビーちゃんを撫でていたら、隣のおばさんがやって来て立ち話を始めた。するとビーちゃんはスッといなくなった。別の日、ビーちゃんと部屋にいると家族が帰って来た。またビーちゃんは窓から静かにでて行った。不思議に思い、家族に協力してもらって観察を続けると、必ずビーちゃんは相手が一人の時はいいのだが、二人以上になるとその場を去る、ということがわかった。一対一でビーちゃんの世界の均整が保たれ、二人以上では限りない「いっぱい」となり宇宙は破綻するのだった。ビーちゃんの数は「1」と「いっぱい」だけ、それで世界が成り立っていた。
かつて私が初めて大学から講演を頼まれた時のこと。教壇に立つと多くの人がこちらを見つめて座っていた。挨拶し語り始めると、すぐにあれっ何か変だと感じた。私は誰に向かって話しているのだろう? それでも授業はスタートし、ついに相手を見失ったまま終了。講義は空虚な呪文をつぶやくような体験となった。それからは何度やっても慣れず、しかも劇場のような講義室にバランスの悪さを感じて居づらくなる。ビーちゃんと同じだった。それは一体何なのだろう。
次第に私は、「語り」は「聴く」という対者がいることによって、語れるのだということがわかってきた。しかも「語り」には、一つが一つに向かうことでしか成立しないものが内奥に潜んでいると直感する。それからは動物でも人でも山でも、一対一で出会っては、それは何かと考えるようになった。
ビーちゃんが死んでもう随分と経った。
学校の教室のデザインは未だに全体教育的である。大量の人にマイクで一斉に伝達することなら、もうもっと他に便利なメディアがある。講義室に見られるような学校はやがて解体するだろう。そして生きた人間の対話と学びの宇宙にこそ、私もビーちゃんと勇んででかけたいと思うのである。
『かかとに棲む狼』2017年4月―2018年 連載 共同通信社より全国配信