「おとぎ話」とは口頭伝承が始まりで、近代国家が形成される以前の作者不詳の物語である。様々な物語が語り継がれ、改編、創作されて現在に至っている故に、歴史的事実とは違う側面から人間の「痕跡」のようなものがちりばめられている。また通常の物語のように「結末」に向かって書かれるというのではなく、様々な出来事の断片、人間の生き様という長い「途中」に寄り沿って語られるので、理屈では説明のつかないことがそのままでむき出しに放置されていたりする。物語の流れを突然断絶し、人物の立場を強引に逆転したり、違う次元から魔法という超自然的なことがおこり、教訓もままならぬ内に不条理にばっさりと終わったりするさまは、消え去った多くの名もない民のよみがえりの声であり、彼らの凄まじい生の証なのかもしれない。しかし、このように「ばっさりと終わる」その場所にこそ近代文学が見落としてきた逞しさがあり、見方を変えれば民俗学が出現する以前に、おとぎ話という形を借りて歴史には決して記録されない記憶の伝達がなされてきたのだといってもよいのだろう。
今回、村上春樹さんの小説を初めて読んだのだが、読み進めていくうちにそんなおとぎ話を感じるような気がした。ヘンゼルとグレーテルのように、物語のパン屑が森の小径に落とされ、バラバラになった記憶の断片が日常に不意に現れて不安を投げかける。そして読者は主人公と共にパン屑を拾いながら森の奥へ奥へと入っていく、というように。
しかし、しばらくするとこの本は、おとぎ話の核にあるはずの、人間が何かと出会った時にわき起こる驚異や不思議を感じる「ワンダー」に主軸があるというよりは、不思議な現象を引き起こすための手段である、魔法「マジック」が強調されていることがわかってきた。物語のいたるところに魔法がデザインされており、それが起こるたびに驚いて小さな不安がざわざわと漂う。視覚的にも、第1部の最後に現れるゴシック体で黒く強調されたメッセージ的な引用文がサイケデリックな驚きを起こさせたり、目次が絵本『ハリス・バーディックの謎』のような呪文風になっていたり、ライドに乗って出口まで冒険を体験するような仕掛けである。
『騎士団長殺し』という日本画を見てみよう。小説でも絵でも写真でも面白いのは、作者も気づいていないものに読者がでくわしてしまう時である。本が怖いのはメタファーされた作者のメッセージに読者が気付く時などではなく、人がつくるものには作者さえも意図しないものが出てしてしまうということであり、私が「絵を見る」ということはそういうものを視る、そういうものを読むということである。
主人公は『騎士団長殺し』の絵をキーストーンとして謎解きをする。物語が「謎解き」であるとわかると「謎が解かれる」という結末に向かって本は書かれるようになる。画家である主人公が絵を見る。主人公は絵を長時間かけて眺めてはいるのだが、雨田具彦の隠された体験という物語ばかりを見ようとするので、絵は背後の「脚本」を読み解くための記号となってしまう。けれども普通に人が絵を見るというときは、作家のタイトルや時代背景やコンセプトという言語的な説明で納得などしない。アレゴリーで読み解くことだけもしない。とにかくただ見る、ただ出会うのである。「読み解く」のではなく、ただじっとしつこく見る。そうすると思わぬものと出くわす。
キラキラと輝く鉱石の粒子からなる岩絵具。日本画のワンダーは、その画材で表現する時の「速度」にある。思ったことをすぐ描こうと思っても、絵具をつくるところから始まって恐ろしく時間がかかる。油絵をやっていたような人が岩絵具を使ったら、この画材の不自由さ、のろさに愕然とするはずだ。そしてその奇妙な身体感覚のズレを起こす作業にこそ魔力があると、帰国した雨田は知ったに違いない。今描いていながら、今という現代的な時間を逆転し、思考をなし崩しにするようなものが制作に潜み、それこそが自身が引き受けた痕跡を解放してくれるかもしれない、と。画材という物質は対象の核心を掴んでしまうところがある。画材は画家のとても深いところと繋がっていて、何を描くかという意識よりも以前に、画家がその画材を選んでしまった時に、すでに描くべきものの正体に接近してしまっている。もちろんその時点では画家も誰も気づいていないのだが。